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12月 28, 2014の投稿を表示しています

インランド・エンパイア

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デビッド・リンチ監督に「インランド・エンパイア」という作品がある。実はまだ見た事がない。しかし監督の著書に、その製作過程のいきさつや撮影途中の裏話などがたくさん載っていて、それがまた実に面白いので、なんだか既に見た映画のような気がしている。変な話だけど、僕はただこの映画の内容を勝手に創造して楽しんでいる。
いずれ、アマゾンからDVDが届いたら、それを見なければならない。おそらくこれまでと同様に、こちらが見る前に勝手に想像した映画と実際の映画との間で、揺さぶられるのだろう。監督の場合、これはすごい!という時と、なんじゃこれという時の落差がすごいのだ。「マルホランド・ドライブ」の時は、映画館を出るときにはほとんど乗り物酔いの状態で這い出るようだったぞ。
そもそも「インランド・エンパイア」というタイトルは、主演のローラ・ダンのご主人の出身地とのこと。本来全く意味をなさないこの地名から霊感を受けた監督は、この映画を作るべき使命に目覚めたのだという。まったく訳が分からない。映画の宣伝も牛を連れていたりして謎だ。
いつも、デビッド・リンチ監督には一方的にやられている。今日はこちらから勝手に攻めることにしても良いだろうか。新年だしね。
王陽明の「良知を詠ず四首」の詩の中に「自家の無尽蔵を抛却し(うちすてて)門に沿い鉢を持して貧児に倣う」という言葉がある。自分の心のうちに「良知」という。つきることのない宝庫を有しているのに、それを知らず、家々を廻って物乞いするように外物をもとめることを現している。(安岡正篤 人生信條より)
「インランド・エンパイア」という地名は「うちなる心の世界」を喚起させるものがある。僕の勝手な解釈では、自分の心の中にこそ、豊穣なメッセージにあふれる内的世界があるのだということを伝えているような気がする。デビッド・リンチ監督の映画はおそらく、ぜんぜん違うんだろうけどね。

今年から改めましょう

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大晦日に低気圧が通過した関東は強い風が吹いていて、夜中に初詣で並んだひとたちも寒そうでしたね。紅白歌合戦を楽しく鑑賞したあとの夜更かしで寝不足の僕も、この海の幸づくしのおせち料理を見て、正月を実感しました。これみんな人形町の市場で買ったものだそうです。

みなさま新年あけましておめでとうございます。

このところずっと横尾忠則氏の著書を読んでいて(あまりに面白くてもったいなくて、毎日少しづつしか読まない)だんだん僕の頭もすこしづつ現実から離れて、へんてこな芸術家的な考え方に染められていくような気がする。

時に、どきっとするほど勉強になる話もある。瀬戸内寂聴さんとの連載「奇縁まんだら」の話。この仕事に限らずだが、横尾氏は、〆切よりもかなり早く作品を完成させるのだという。「締め切りぎりぎりに描くといかにも『お仕事』という感じがするけど、締め切りよりもうんと早く描くと、自分の仕事という感じ」になるというのだ。なるほどー!なんとシンプルで、説得力のある話だろうか。

僕はいつも逆をやっていた。浅はかだった。「なるべく締め切りぎりぎりまでやらない」という方針だった。しかもそれには「ぎりぎりまでねばることで、最高のものが出来る可能性をすべて拾うのだ」という丁寧な言い訳までついていた。締め切りの日の朝に、仕事を完成させるのを美学としていた。

君子豹変す。今年から改めましょう。(半分は無理な感じがしているけど)締め切りよりもずっと先に仕事を片付けましょう。とすると、何か? 今月中旬に予定されている、高校での講義についても、早速内容をかためて、ストーリーを決めてしまわなければならないのだな。うわー、それは大変だ。

海を見つめて並んでる

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ワインを飲みつつ紅白も見ながら、ポルトガルの風景を描く年越しとなった。ちょうど0時になる頃に描き終わりました。よかった。ここは、北大西洋に面した海岸で、ポルト・デ・アブリーゴ・ダ・トレイラという港に面したエリア。(グーグルですからね)きれいな海岸に面したリゾート地のようです。
世界のどこにいっても、うつくしい海岸沿いには、このように家がひしめきあって並んでいる。オーストラリアに仕事で出張していた時、ラッキーなことに「マンリービーチ」という砂浜に面したコンドミニアムに住んだことがある。この時は目覚めて窓の外をみると青い海、仕事から帰ると夕焼けの海、休日となればひたすら波を見つめるという生活だったが、とにかく人間として生まれ変わったような気分になったものだ。
こんなに色とりどりで、デザインもまちまちな家並み。家の形などはバラバラに主張しているけれど、海を眺める一番いい場所にいたい、という気持ちは一緒なのだ。仲良くならんで「海を見る」という共同体になっている。人間という生物は陸上生活になる前に、海に棲んでいた記憶があるから、海にあこがれる。
世界中の国々も、こんなふうに一つの共通のあこがれを持って、なかよく並んで暮らすことができればいいのに。暮らし方、生活のデザイン、色彩などはみな違ってもいい。海に憧れて並ぶこの家並みのように、共同体としてともに生きていく。そんな世界になればいいのにと思う。
さて、いよいよ年越しです。2015年。みなさま、良いお年をお迎えください(=゚ω゚)ノ 新年もなにとぞよろしくお願いいたします!

年越しのユリ

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先日のクリスマス・パーティ用に活けられたユリです。なんでいまごろユリが元気に咲いているのだろうか。冬にこんなにも花の生命力を感じられるというのは、やはり現代のテクノロジーのおかげでしょうか。みなさんはどのように年の瀬をお過ごしでしょうか。
そろそろ2015年という年について考え始めました。21世紀の初頭にしてすでに、なにか新しい動乱の兆しを感じるような気もしています。ローマ法王もそのインタビューで、この世界はいま第三次世界大戦のさなかにあるとも述べています。考えようによっては、本当にそのようにも思えます。しかし私としてはこれからの新しい未来が、なんとかかんとか、平和で穏やかな時代として続いてほしいものだと思っております。
ひとつの鉢に植えられたユリやスターチス、スプレー菊、カーネイション、ガーベラがみんな顔を揃えて並んでいるような光景をずっと見ていたいものだと思います。万物合い並びて合い悖らず。別になにも争う理由はないのではないでしょうか? フェスブックで、トラフィックのデイブ・メイスンさんが紹介していた、ブッダのことばを思い出します。本当に良いことばです。
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In the end, only three things matter. How much you loved,
How gently you lived,
How gracefully you let go of things not meant for you.

最期となって問われるのは三つだけ あなたがどれだけ多くを愛したのか いかに穏やかに人生を過ごしたのか 関係ないことを静かに見送れたのか
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オレンジのマイクロバス

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映画をはじめて観たあとで、すぐにもう一度観たい、あるいはもう2〜3回は繰り返し観てみたいと思うものがある。「もう一度観たい」という理由は映画によってさまざまだ。スペクタル感あふれる特撮シーンのすごさをもう一度味わいたいという場合もあれば、特撮などとは関係なく、ただただ俳優たちの演技の細々としたニュアンスを味わいたいという場合もある。
「スター・ウォーズ」は前者の第一であって、これまで何度繰り返し観たか知れない。後者の第一は「ミッドナイト・ラン」である。「リトル・ミス・サンシャイン」という映画も僕に取っては後者に属する映画なのだけど、こんなにも繰り返して観るほどとは思わなかった。意外にブラックなところもあるし、ちょっと定番すぎる家族愛ストーリーが甘すぎるようにも思えた。
しかし、先日乗った飛行機の映画プログラムでたまたま再会して、改めてこの映画の良さをストレートに味わった。一人としてまっとうな(欠点の無いという意味で)キャラクターがいないフーヴァー家の家族。
やや太めで食欲旺盛。でもミスコンを目指している主人公のオリーヴ。厭世家の兄ドゥエイン。重度の鬱病の叔父のフランク。すれ違いと喧嘩ばかりの両親。身勝手で下品な祖父。
でも、このメンバーがこのぼろぼろの「フォルクスワーゲン・タイプ2 マイクロバス」に乗って旅をはじめる時、映画のマジックが人生の一瞬のマジックに重なる。うまくエンジンもかからないこの車の存在は、この家族そのものなのだ。ドアもはずれて転げ落ちそうな状態だけど、なんとかかんとかしがみついて走っていくしかない。
この劇用車。撮影では同じ型のものが5台も使われたそうだ。もしろん脚本も素晴らしく、俳優の演技も素晴らしいこの映画。しかし最後に魔法のスパイスをかけたのは、オレンジのこの愛らしいマイクロバスだ。それは間違いないと思うのである。


地球の裏側のスケッチ紀行

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だんだんブログのタイトルがいい加減になってきた。昨日と同じポルトガルの田舎道でみかけた(グーグル・ストリートビューです)家の前でスケッチしているのだ。夜になって、ひとり静かに地球の反対側の昼の景色を描いていると不思議な心地がする。心がひとりでに瞑想状態のようなものに近づいていくようだ。
このところずっと読み続けている横尾忠則氏の著書によると、横尾氏にとって絵を描く事はは、大人になるよりも、子供に戻ることに近いように思うと言っている。この「子供に戻る」という話は思いのほか深い話であって、良く言う「子供のように純真な気持ちで素直な絵を描く」といった単純なことではないのだ。
横尾氏はテレビにでていた天才的な子供たちが、みな図抜けた才能を発揮しているのを見て、そこにある種の共通点を見たという。まさに子供だからできる、自分を信頼しきった状態、あるいは自分の感じることを信じる状態のようだ。ここで言う「子供のように」というのは、近代的な知性の入る余地のない状態のことをさしているのだ。
近代によって築かれた「自我」に頼ることなく、東洋的な「無我」の態度になりきることなのだ。横尾氏は、これは人類にとって未知の段階であるが、そこに人類の未来を感じないわけにはいかない。そう言っている。最新の心理学に置ける「自己意識」に関する見地と一致していると思う。
「自己意識」というものは、実は人間の思考や行動をコントロールしているものではなくて、単に情報の要点だけをモニターしているものなのかもしれないのだ。それを「自己」だと信じるきるということは、人間が自分の能力のほんの少ししかを信じていないことに等しい。人間の能力というものは「自己意識」の知らない、広大なマインド全体に広がっているのかもしれない。