たった一度の旅で

馬関追想

このところ、先人が残した日記や旅行記ばかり読んでいる。珍しくぎっくり腰をやってしまい、臥せっている。そうするとなぜか、他人の紀行文などを読みたくなるらしい。

一方、Facebookのウォールに目をやれば、知人の旅行の報告が、写真付きでリアルタイムで届く。すごいことだ。奥の細道の旅に出た松尾芭蕉が、アカウントを持っていたら、どんな書き込みをしたのだろうか。

 旅の経験というものは、時に人の心を変えてしまう。江戸末期に生きた、ある青年のたった一度の旅は、彼の心を大きく変えた。そしてそれが、日本の運命までも変えてしまったと言われるのだ。 

その青年の名前とは高杉晋作。23歳にして幕府の随行員として上海に渡った。その時彼が見聞したことは、「遊清五録」という旅行記に記録されている。阿片戦争に敗北し、欧米の植民地政策に支配された清王朝の姿を目の当たりにした。若く洞察力豊かな彼は、これを日本の将来と重ね合わせて、尊王攘夷を心に決める。

馬関戦争(1863年)。長州藩は関門海峡を通過する列強の船を単独砲撃し、その戦争責任を負わされた。その講和会議を担った高杉晋作は、連合国の要求をはねのけるべく、粘りに粘った。

特に「領土の租借」という項目については、頑として首を縦に振らなかった。「領土の租借」という、ただ一歩の譲歩が、いずれ香港のように長年の植民地となる未来を、彼は見抜いていたのだ。

講和会議に同席した伊藤博文は、後年、この時高杉の交渉によっては、列強による日本の植民地化も実際にあったかもしれないと述懐する。

若き高杉晋作に上海への視察旅行を命じたのは、当時の長州藩藩主・毛利敬親。大きな人格者で、乱暴者でありながら優秀な高杉晋作の歴史的な役割をすっかり見抜いていたような采配だ。

近年の日本では、若者が海外留学をしたくないと考えるようになったという。世界の舞台で責任ある立場となった日本。若者にはどんどん旅をして、大きな世界を見てほしいもの。この国は彼らが担うんだから。

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