記憶の街


夢の中で知らない街を歩くことがある。不思議なもので、その夢の中で自分は「この街は絶対に現実のものだ」と信じている。そうだ忘れないように写真を撮っておこうと、カメラを取り出して構えたあたりで目が覚めたりする。

目が覚めてから、もう一度目をつぶってみても、もうその景色を思い出すことができない。もしかすると、それは以前どこかで見た街なのかも。しかし思い出せないということは、やはり知らない街なのか。

年末休暇の直前に腰を痛めてしまい。4日ほど寝込んだ。とにかく痛くなるような姿勢はとらずにじっとしているのがいい、というのがうちの奥様の意見なので、そのとおりにしていた。文字通りに、家に引きこもりの状態となった。

こうなってしまう直前に買った本が、ドナルド・キーン先生の「百代の過客」だった。日本に伝わる日記文学を、平安から江戸期まで網羅したもので、特に「旅日記」もたくさん取り上げられている。寝たままとなった僕の枕元に「旅日記」の集合が置かれていたのは、皮肉な偶然であった。

しかしこの本が手元にあったおかげで、じっとしていて暗い気分になりがちな時も、素晴らしい気分転換となった。松尾芭蕉、小堀遠州、宗祇のような著名人から、無名の作家まで、日本人というのは本当に旅好きであり、旅日記好きなのだと気づかされる。またその行動範囲も驚くほど広い。

いま、コンテンツ・ツーリズムとか、アニメによる聖地化などということで、新しい旅がブームとなっている。何かをきっかけに、人は旅心に誘われる。古典にみる旅人の心はどうだったかというと、それは基本的に「歌枕」(和歌の題材とされた名所旧跡)がつなぐ、先人たちの旅との対話だったようだ。

万葉集をはじめ自分よりも前に誰かが、歌に詠んだ場所。そこを目指して旅をする。特に松尾芭蕉のような天才の場合、その場所が風光明媚であるかどうか、ということは実はどうでもよかったみたいだ。それよりも、そこが先人の「歌枕」であるかどうか。そのほうがずっと重要だったようだ。

僕の夢に出てくる知らない街も、もしかすると昔の誰かの記憶なのかしら。いろいろな本を読んだり、映像を見たりしているうちに、知らずしらず頭の中で出来上がった街なのかも。他人の体験や先人たちの記憶というものが、いつの間にか僕たちの心を形成している。そういうことも、あるのかも。

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イラストはポルトガルのエストリル
リスボン郊外の太陽の海岸とよばれる一帯にあるヨーロッパ有数のリゾート地

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