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スコールと青空

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日本とマレーシアの間には、MJHEPという、留学生受け入れの教育プログラムがある。 マレーシアで上位5%という学生さんが、まずは日本語を徹底的に勉強する。その後、日本の大学の編入試験を日本語で受ける。配慮の行き届いた素晴らしい留学制度である。 編入試験は、日本の大学の先生方がマレーシアに訪れて行う(その方が旅費が節約できる)。私も試験のために2度現地を訪れた。試験に来る学生さんは、みな日本への関心が高く、ピュアな感性と向学心の持ち主が多く、面接はとても楽しかった。 試験のある11月は雨季。夕方になると突然、雷鳴が鳴り、土砂降りの雨となる。面接の声が聞き取れなくなったり、ホテルのバルコニーに濁流があふれたりもした。スコールのあとは、決まって虹と青空が出る。 マレーシアの学生さんは、きらきらと輝く目をしていて、豊かな感性の持ち主に思えた。もしかするとそれは、現地の気候にも関係しているのかもしれない。スコールと青空。この激しくも、くっきりとした自然の中で、雨に洗い流されたような心が育まれるのだろうか。

コペルニクス

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NHKで働いていた頃、仕事が終わらずよく遅くまで残って図面やスケッチを描いていた。夜10時すぎくらいになると、スタジオで収録を終えた先輩たちが、ひとり、ふたりと部屋に戻ってくる。みな帰る前に、決まって私の背後までやってくる。 みな、私の仕事にひとこと批評をくれてから帰るのだ。有難いことではないか。 「あー、それダメでしょ。遠近感逆でしょそれでは。下手だねー」  「なに描いてんの、そのパーツ意味ないんじゃない?予算の無駄」 「ひどい色だねー。やりなおしたら?はじめからやったほういい」 「ささきちゃん意外とうまいね」とか、ほめられることなんて、100パーセント、ない。 だけど、先輩に声をかけてもらう、むちゃくちゃ言われる。そういうのが日常だった。むこうもこっちも、遠慮なく言い合いをしたり、批評をしたり。年齢の差なんか関係なく本気でぶつかりあう。熱いコミュニケーションがあった。いま思えば、かけがえのない経験だったかもしれない。 コペルニクス先生がポーランド人とは知りませんでした。 ワルシャワの東のはずれの旧市街。大きな台座に座る記念像があります。どこから見ても堂々としていて美しい。 それはそうでしょ。 地動説を発見した人。世界観をひっくり返した、人類の大先輩。 夢のまた夢とは知りつつ、コペルニクス先輩みたいな大偉人と飲みに行って語り合えたら... どんなに面白いことだろう?「ほんとに地球は丸いんですか?」とか聞いてみたい。 ド緊張してなにも話せないとは思うけど。

若いときは

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「若いときは、失敗をおそれずにチャレンジしなさい」 大学でよく使われる台詞のひとつです。大人の世界の一員になったあとで、大きな失敗をすると大変なので、若いうちに(社会に出る前に)たくさん失敗しておきなさい。私もそのとおりだと思うので、似たようなことをよく言うかも。学生さんたちへの老婆心というやつです。 ところがこういう言い方もある。 「失敗を若さのせいにしてはいけない」 若いからといって甘えずに、自分の行動には責任を持ちなさいという意味か。どちらにせよ、若いということは大変なことなのだ。世間のルールもわからず、物事の道理もわからず、それでも正しく生きなければならない。私が若かった頃は、もう少しおおらかだったような気がするんだけど... このスケッチは、ポーランドの南端の街「チェシン」の道です。私が滞在していたホテルから、シレジア大学のキャンパスに向かうのに毎日通った道です。全面的に石畳なので、歩くと足へのショックが大きい。しばらく足の痛みが続きました。 この道の先にある教室の学生さんたち。 ポーランドで育った彼らは、なんだかとっても大人でした。 なぜなのか?どこが違うのか? いまも考えています。

ロールキャベツ

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昨年のいまごろはゴートゥ・キャンペーンなどもあって、感染に気をつけながら少しは旅行気分を味わうことができた。それにくらべると今年の夏は、ただただ暑いばかりでどこへも逃げ場がない。たまった仕事がはかどるなぁー、なんて思っていたのも先月までのこと。 オリンピックも終わってしまって、取り残されたようなこの猛暑。みなさま、いかがお過ごしでしょうか? このロールキャベツを群馬のホテルで食べたのは2018年の8月のことです。遠出しておいしいものをいただくなんてことは、しばらくはおあずけになりそうですね。夏休みの宿題の合間に、すこしは時間あるので、自分で作ってみますかねー。ひさしぶりのブログ投稿でした。

器を選ぶ

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NHK時代からの恩師であるH先生は、なかなかの食通であり、全国各地の老舗料亭をご存知である。ある時私は、同僚とともに京都の下鴨茶寮に連れていっていただいた。人生で初めてご馳走になった本格的な懐石料理のことは忘れられないが、その時に女将から聴いた話が、とても味わい深く思い出される。 「うちでは、板前さんたちには、いつも美術館などで勉強させてます」 「なるほど、料理は具材の配色やバランスが大事だからですか?」と軽く返してしまった私を諭すように、女将はさらに話を続けた。 「いいえ、料理の配色も大事ですが、それよりもっと大事なのが器を選ぶ感性なんです。料理を引き立てるだけでなく、お膳の組み合わせや順番で、お皿やお椀を選ぶ眼を養って欲しいのです」 当時NHKで、映像デザインの仕事に携わっていた私にとって、まさに「眼から鱗」であった。お客様に食べていただく料理そのものも大事だが、それを載せてお出しする器を選ぶこともさらに大事。テレビ番組の内容が料理だとすれば、私が担当する「デザイン」はそれを載せる器のひとつではないか。「あんたはんは器を観る眼を待ってはりますか?」と聞かれているようで、恥ずかしい気持ちになったものだ。 京都という古都には、古くから伝わる伝統があり、それはまさに生きた教科書なのだ。まさか、これがH先生の策略であったとは思わないが、美味しい料理を味わいつつも、テレビ局デザイナーとしての自分を振り返り、勉強させていただく機会となったのである。

一本道の向こうに

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中央本線は新宿から塩尻まで伸びる長い鉄道である。千葉県から八王子まで通う私だが、八王子から先はなかなか行かない。ときどき「動物と衝突したため遅延」という表示が出る。遠く信濃の国まで繋がっているのだ。だが普段はその実感はない。 しかしある時、それが実証された。新宿から「あずさ号」に乗り、八王子で下車した私は、うっかり隣の席にジャケットを置き忘れてしまった。主人に見捨てられた彼は、その後一人で松本駅まで到達したらしい。親切な駅員さんの手で紙袋にいれられて、数日後に彼は、うかつな主人の元に戻ってきた。確かにこの長い線路は信濃の国まで繋がっている。 遠く伸びる一本道を見ると誰もがその先の世界を想う。 一本道は未来や過去といった時間のイメージにも繋がる。 この「長い一本道」の心理的効果を見事に使った映画がある。「第三の男」と「ペーパームーン」である。どちらもそのエンディングに印象的な「一本道」が登場する。(いずれも珠玉のモノクロ映像です。)前者は、ウィーン郊外にある墓地の枯葉舞う並木道。後者はアメリカ中部ミズーリ州の茫漠とした原野を横切る曲がりくねった道。 いずれのシーンも、物語のドンデン返しの最後に忽然と登場するところが実に効果的。あまりの展開に心を揺さぶられて我を忘れていた観客は、最後にもう一度、ここでじっくりと物語を振り返り、主人公たちの行末を想う。監督が最後に用意してくれた、とても贅沢な時間だと思う。映画はこうでなくちゃね。 私も時には、想像上の一本道をみつめて自分の人生という物語を振り返ってみよう。その一本道のずっと向こうにいつか、もう一度会いたい人たちの姿が見えるかもしれない。

素晴らしい世界へ

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この古い建物はポーランド南端のチェシンという街にありました。「聖ニコラス ロタンダ教会」といって、ポーランドの円形建築で最も古い教会です。20ズォチ紙幣(600円くらい)の裏面に印刷されています。12世紀くらいのものといいますので、ちょうどポーランド民族がキリスト教に改宗して、ヨーロッパ文化圏の仲間入りした頃のものです。 その頃、ポーランドという国は、強力な統治者の登場によって、一気に大国へと統一されていったそうです。それまで沢山の部族に分かれていた人々は、民族同士が混じり合ったり競い合ったりする時代に翻弄されたことでしょう。いまこうして、小高い丘に静かにたたずんでいる丸い建物は、黙ってその当時のことを思い浮かべているようです。 いま、私たちもいわゆるコロナ禍に巻き込まれて、大変な変動の波に揉まれています。この秋の大学も、いわゆる通常の授業への復帰とオンラインとの間で揺れ続けることでしょう。ポーランド民族が知らず知らず、大国が武力で覇権を争いあう時代に巻き込まれていったように、私たちもなにか未知の時代に押し流されているのでしょうか。 いまから1000年後。私の子孫は2020年を振り返って何を見つけるのでしょうか? ヨーロッパのキリスト教徒は、この石造りの建物に彼らの痕跡を残しました。私たちが現代に築き上げた財産といえばどうでしょうか。YouTubeもzoomもNetFlixもブログもオンラインゲームもAI将棋も、えーと、そしてGAFAも?... すべてがデジタルデータです。 トーク履歴を引き継げなかったLINEみたいに消えていたらどうしましょう。 でもまあいいか1000年後のことは。ただ、できることならば、信じられないほど素晴らしい世界へ進化していてほしいものですね。

前にも来たことがある

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  一昨年の秋にある学会で訪れた台南の商店街です。水彩と色鉛筆で描いてみました。こうして見ていると「ここに、もう一度行きたい」という気持ちが湧いてきます。そして、いつか必ず行ってしまうと思います。 きままな旅が好きな私ですが、旅の歩き方に変な癖があります。二回以上訪れた街で、前に行ったことのある場所に行ってしまう。せっかくの二回目なんだから、新しい場所を開拓して、見聞を広めればいいものを、わざわざ行ったことのある場所に行く。なんなら、ホテルもわざわざ同じところに泊まったりします。 京都もプライベートや仕事でずいぶん行きましたが、ひらがなのお稽古のように同じ場所をなぞることがあります。どこからスタートしても、結局は木屋町通りにたどり着き、一条から五条まで歩いてしまう。せっかくロンドンに行っても、もったいないことに同じところばかり行ってしまいます。「そこが以前と変わらずにいまもそこなのか」点検しているみたいです。ときどき「自分は何をやってるんだろう」と思います。 「デジャヴ」という経験ありますよね。あの感覚が好きなのかもしれません。 老境に近づいてきて想うのですが、もしかすると私は、人生でも同じことをしているのかもしれない。そこそこ長い時間生きてくると「人生のどこかで見た景色」に出会うことがちょくちょくあるのです。「これって前にやったよね 」という感覚です。 そんなことをぼんやり考えていたある日、高水裕一先生の「時間は逆戻りするのか」という本を読みました。基本的には宇宙物理学の本なので、わからないところも多かったのですが、「ほんとその通りだよー!」と思う箇所もたくさんありました。特に気に入ったのはこの話です。最新の物理学の理論によると、私たちが生きているこの宇宙は、既にこれまで「49回」も繰り返されてきた可能性があるというのです。 ほらね。やっぱり、また同じところに来てたんです。

二番目は必要ですか

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「二番ではダメなんですか?」というフレーズが、一時期流行となりました。私の答えは「二番も大事」と決まっています。特に、映画の撮影では絶対にそうなのです。 映画のオープニングタイトルで、クレジットされるのは、監督、カメラマン、編集マン、作曲家、キャスティングディレクターなど「一番メインのスタッフ」と決まっています。ところがエンド・クレジットをよく見ると「二番目」の人たちの名前も載っているのです。お気づきだったでしょうか? その二番目の人たちは「セカンド・ユニット( 第二班 )」と言って、メインのスタッフが撮影する余裕の無いシーンを担当するのです。遠方の海外ロケや、俳優が登場しない情景シーンなどを担当することが多いです。 ジョージ・ロイ・ヒル監督の名作「明日に向かって撃て」でも、その第二班が活躍しました。第二の監督の名前は、ニッキー・ムーア、第二のカメラマンは、ハロルド・ウェルマンと言って、メインのカメラマンである、コンラッド・L・ホールの親友です。 この映画で彼らが担当した仕事が、実はまさにオープニングタイトルの映像だったのです。ブッチ・キャッシデイとサンダンス・キッドが活躍した時代の列車強盗のシーンを、古びたクラシック映画のテイストで撮影しました。悲しげなトーンのピアノと、この映像の組み合わせがあまりに良くて、肝心のメインスタッフのクレジットが頭に入らないくらいです。 私自身は、実はこのオープニングタイトルは、何か昔の映画のフィルムを拝借して作ったものとばかり思っていたのですが、最近これが、セカンド・ユニットによって新たに撮影された映像であったと知りました。騙されるほど、よくできたクラシック映画のシーンですし、メイン監督のジョージ・ロイ・ヒル監督もとても気に入っていたとか。 「明日に向かって撃て」では、このように本編とテイストを別にする挿入シーンがいくつかあって、それが映画全体を引き締めて、いい意味での気分転換となっています。「雨にぬれても」の挿入歌で有名な自転車シーンもその一つで、ともすれば悲劇的なトーンになりそうなこの作品に、永遠に消えない明かりを一点灯しています。「第二のチーム」が残した映像も、あちらこちらでこの映画を引き締める役割を果たしています。 撮影賞も含めて、アカデミー賞を三つも受賞したこの作...

時代に取り残される

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「取り残される」 実に人を不安にする言葉ですね。周囲の仲間や家族がどこかに行ってしまって、たった一人になってしまうイメージ。子供の頃に何度か見た怖い夢。現代社会のストレスの中にも、何かに取り残されてしまう恐怖のようなものがあるのではないでしょうか。 現代社会では、常にどこかで何かが取り残されていきますよね。私たちの生活を便利で快適なものにする技術進歩が、常に何かを追い越し、何かを過去のものとして捨て去っています。 スマホが全世界に普及して、電話ボックスも公衆電話もいつのまにかどこかへ消えてしまった。カメラもデジタルになってフィルムも入手できなくなりました。ラジオやテレビもいずれはネット配信にその座を明け渡し、貨幣ですら姿を消してしまうのかもしれませんね。 うかうかしていたら「あなたのやり方は古い」とか「あなたの価値観は現代には通用しない」とか言われて、私自身も時代に取り残されてしまいそうです。バージョンアップを忘れたアプリみたいに。 でもよく考えてみたい。このような技術進歩に伴う変化や、価値観の転換というものは、結局は人間社会の勝手な都合で起きているに過ぎないのかもしれない。 その証拠に、目を上げて野原を見れば、そこには昨年と変わらず、黄金色の落ち葉が秋の陽を受けて輝いています。青い空をバックに白い雲が流れていきます。季節によって変転しつつも自然界の営みと本質は、何も変わっていないのです。 時代に取り残されると言っても、人間が自分で自分を追い越し、過去の自分を否定しているだけ。思えば、人間は勝手に苦労を背負いこんで、それと闘っているだけなのかもしれません。 もっと気楽にのんびりと、バージョンアップもほどほどではいかがでしょうか。人類が地球の上で何を成し遂げたところで、大宇宙に流れる悠久の時の前では、ちょっとした誤差程度なのかもしれないし。

ショーウィンドウ

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ショーウィンドウというものは「ショー」というくらいだから、お店の品物を展示して見せるためのもの。でもこの絵のように「これでもか」と品物を詰めて並べたウィンドウには時々驚かされます。 古い石造りの建物にむりやり開けたようなドアとウィンドウ。しかたなく、こんな詰め込みになってしまうのでしょう。ヨーロッパの古い街角で、よく見かけるスタイルですが、日本で見たらこれは質屋さんかな。 このお店はいわゆる金物屋。時計やら工具やら小物がいっぱい並んでいるだけなのですが、遠くから見るとなんだか博物館のようです。前を通るたびに、ついつい惹かれて近寄って見るのですが、結局一度も中には入りませんでした。 でも、外から見ただけでこのお店の「気持ち」がわかったような気もします。 人間にもこんなウィンドウがあったらいいかもしれない。通りすがりの人から「いい心がけですね」とか「すごいもの持ってますね」とか覗いてもらえます。 (挿絵は、ポーランドの小都市チェシンの裏通り)

楽しきと思うのが

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うちのトイレにかかっている「べんぞうさまカレンダー」には、毎週ひとつだれかの金言が載せられています。それを見るのが楽しみですが、ときどき「おやっ?」と思うことがあります。例えば、寛政の改革で有名な松平定信の言葉。  楽しきと思うのが  楽きの基なり  松平定信 こんなのは、ちょっと意表をつかれた気がします。腐敗した賄賂政治を立て直した堅物政治家かと思いきや、粋な言葉を残されたものです。なにごとも楽しんでやらなければいけない。そうですよね、むしろ、こういう考え方ができたからこそ、天明の大飢饉から藩政を立て直す難事業をやりとげられたのですね。 一方で、先週のNHKラジオ講座では、こんな言葉が紹介されていました。「ピーターパン」の原作者でもある、 J.M.バリイ 氏 が残された言葉です。  できれば何かほかのことをしたいと思わない仕事は、本当の仕事ではない。  Nothing is really work unless you would rather be doing something else.  James Matthew Barrie 「家に帰って寝てたほうがまし」とか「こんなの早く終わってゲームしたい」とか思うくらい大変でないと、それは本物の仕事ではない。仕事はツラくて当然ということですね。現代にも通じるポイントを押さえた、いい言葉ですね。 でも、このふたつの金言格言を並べてみると、おたがいに矛盾して聞こえます。はたして仕事というものは、楽しいものなのか? 辛いものなのか? わからなくなってきたので、無作法ながら、ふたつの言葉を足し算してみますね。  本当の仕事というものは「早く終わって別のことしたい」と思うほどツラい。  しかし、それでもそれを楽しんでやることが大事である。 あら? なんだか自虐的な話になってしまいました。これではまるで企業戦士向けの標語ですね。 失礼いたしました。この問題はまだまだ考え続けなければならないようです。

時間が存在しない場所

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寺院の庭。ここには動くものがほとんど無い。すべててが静かに佇んでいる。動きといえば時々訪れる小鳥たちか池の鯉の影ぐらい。響きといえばは水のせせらぎか鹿威しの音。石も草木も苔むした門もただ静かに黙っている。そもそも、まるでここには「時間」そのものが存在しないようだ。 アクションと喧騒のアミューズメント・パークとは別世界。映像と音響が五感をゆさぶる映画館とも対局の空間である。過剰な表現で描かれた想像世界にひたるのも楽しい。しかし興奮の記憶や感情も、いつかははかなく消えていく。 カルロ・ロベッリという物理学者の「時間は存在しない」という本によると、この宇宙には、そもそも時間など無いのかもしれないとのこと。すべては、物質世界に生きる私たち人間が感じているものに過ぎない。つまり気のせいだと。 寺院の庭のような場所が素晴らしいのは、私達をいつのまにか深い内省に導いてくれること。難しい理屈を知らなくとも、先端的な物理学者の理論に匹敵する真実に、私たちを近づけてくれる力を持っているのだ。 (挿絵は、北鎌倉の円覚寺の境内です)

野尻湖の水

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家のエアコンがこわれてしまった。消費税増税前の駆け込み注文と猛暑が重なってしまい、ぜんぜん修理に来てくれない。せっかくの夏休みが、我慢大会のようになってきたので、ついに野尻湖まで避暑に行った。 古い旅館をリノベーションしたペンションに泊まったのだが、オーナーは外国人の方であった。到着時刻を連絡するのに何度か電話したのに、外国人とは気がつかないほど、流暢な日本語を話す方だ。ひとなつこくて親切な彼は、食事中もずっと横にたって地元の話などを聞かせてくれました。いつか話題は、野尻湖の水の利権について。 「マッカーサーは憲法は変えたんですけど、日本の水の権利については手をつけなかったんですよ。野尻湖にかんする利権も明治のままなのです。知ってますか?」 「へえー。いや、しりまへん」 「野尻湖での釣りの許可については漁業組合が仕切ってます。釣り人のために鱒を放してるので、もとの自然の生態系ではないのです。桟橋を作るには国(国土交通省?)の許可がいります。湖の水量の管理は東北電力です。一旦新潟に水が流れれば、その水の権利は新潟県になります」 「はあー。そうなんですか!」 異国の方に、日本社会の仕組み教えていただき勉強になりました。 ぱっとみたところ、山奥に静謐な水をたたえた聖域のような野尻湖。 自然豊かな黒姫山を望むこのロケーションの素晴らしさ。 一方で、この湖は水の利権のかたまりであるとのこと。 日本の歴史も自然も、外国の方のほうがよく勉強していました。

巨額の寄付金

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ジョン・ベルーシとダン・エイクロイドのお馬鹿ギャグが炸裂する「ブルース・ブラザーズ」は、私の中でイチオシ映画の一つである。ストーリーは単純明解。自分たちが育てられた孤児院が、破産寸前の危機に直面している。それをなんとか助けようと、バンドを再結成してコンサートで収益をあげる。ドタバタの大騒ぎの末に、稼いだ5000ドルを寄附する。 「ブルース・ブラザーズ」の監督はジョン・ランディスだが、彼とならんで大好きなのはジェリー・ザッカー監督である。「ゴースト」は至高のラブストーリーだし、「ラットレース」は著名俳優大集合の豪華なコメディ映画である。二つとも私にとって、最高ランクの作品だ。どちらも人間の愚かさと素晴らしさの両面を表現つくしていると思う。 それに加えて、この二つの映画には、もうひとつ共通する重要なポイントがある。劇中で、慈善団体への巨額の寄附がなされるのだ。どちらの映画も、基本的には欲得づくの人間が、巨額の資金をめぐって右往左往する話なのであるが、最後にはそのお金はまるごと慈善事業に差し出されてしまう。お金を惜しがる俳優たちの表情に、ザッカー監督がほくそ笑んでいる顔が重なって見える。 何度も見返しても胸のすくような、これらの寄附シーン。 みなさんもご覧になってみませんか?

見た目どおりではない

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来年の授業にむけて、映像関係の教科書を書いている。慣れない作業のために時間がかかり、周りのみなさんに迷惑をかけてはいるが、自分としては勉強にもなって大変ありがたいことだと思っている。 おかげで、これまで観ていなかった映画もたくさん観た。ニール・ジョーダン監督の「クライング・ゲーム」も実はこれまで観ていなくて(観ていなくてよかったかも...?)この年になって大感服。驚愕のストーリー展開であった。それもそのはず、この作品のキャッチ・コピーは「なにものも見た目どおりではない」である。 古典の中では「失われた地平線」を観たが、デジタルリマスターの映像があまりに美しくて驚かされた。アメリカン・フィルム・インスティチュートが、世界中に散逸していたフィルムを収集し、再現修復に力をそそぎ「シャングリラ」の素晴らしい世界が蘇った。リュミエール研究所のティエリー・フレモーによって復刻された「リュミエール!」も素晴らしかった。これまで、傷んだフィルムで見ていた印象が、180度変わってしまった。 チャールズ・チャップリンの「独裁者」も、モノクローム作品だが、チャップリンの兄が撮影したカラーのメイキング・フィルムが残っている。それを見て驚くのは、当時のスタジオセットや衣装がカラフルなことである。ドイツ兵のズボンはなんとオレンジ色であった。ダンスパーティの人々の衣装も色とりどり。完成した作品の印象とまるで違う華やかな世界がそこにあった。傷んだモノクロフィルムの映画を見ていると、色彩にとぼしい世界だったような気がするのだが、それは間違いであった。 映像が氾濫するいま、私などは「見た目」をそのまま鵜呑みにしてしまう。映像から受けるイメージだけで、ものごとの印象を決めてしまうことも多い。しかし、気をつけなければいけない。すべては「見た目どおりではない」のだから。

ホモ・ルーデンスのアミューズ

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ささやかなアミューズ ちょっとした料理のメニューで「季節のアミューズ」というものが出されることがある。 実際は、フルーツゼリーだったり、ヨーグルトのお菓子などお馴染みの食べものであるが、「アミューズ」と言われるとありがたいものだ。「お口を楽しませるオードブル」あるいは日本料理でいう「口直し」のような一品のことなのだ。 最近は、遊園地のことも「アミューズメント・パーク」と呼ぶようだ。そう言われると、それなりに身なりに気を配り、インスタ映えする家族であらねばならぬ場所に思える。それどころか、私などはうっかりするとチップとデールと並んで、「夢の国で遊ぶ住人」の役を一途に演じている。 でもなぜ「エンタテインメント・パーク」とは言わないのだろう。エンタテインメントというと、もっと「喧騒と興奮のある」場所を連想するのかもしれない。逆にライブ・コンサートは「ライブ・アミューズメント」とは言わない。そういえばクラシック・コンサートは、エンタテインメントでもアミューズメントでもありませんね。 さて、われわれ「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」にとって「楽しみごと」は不可欠なもの。いまの世の中が、アミューズメントで溢れているのも、そもそも人間が「遊び」や「楽しみ」を渇望する生き物だからなのだろう。お金さえあれば、産まれてから死ぬまで、アミューズしてもらうことが可能な世の中になってきた。 だが、ときどき 人生の楽しみってなんだったんだろう? そんな本質的な疑問も浮かんでくる。 余計なアミューズのために稼ぐのなら しなくていい苦労をしているのかも。

電気スタンド

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爆笑王と言われた桂枝雀師匠に「道具屋」という落語がある。 ズブの素人の男がにわか古物商となって縁日に露店を出す。扱っている商品はみな怪しげなものばかりなのだが、寄って来る客はそれなりに玄人で真剣顔。そこからの男と客との攻防が抱腹絶倒に面白い。この面白さは、電車の中で聞くのが危険なほど。 切れないノコギリ、抜けない短刀、擬物の掛け軸、二本足の電気スタンド。並べた商品は、どれもこれも使い物にならない半端もの。男自身は骨董品の価値などわかっていないのだが、シロウトだけに真剣に商売をする。 電気スタンドは、本来は脚が三本なければ立たない。男はそれを「塀さえあれば寄りかかって立ちまっせ。あんさんの家には塀がありまっか?」と無茶苦茶な理屈で売りつけようとする。インチキの押し売りだ。 だが待てよ、この男の商売、 やってはいけないことなのだろうか。 彼は傷のあるものや立場の弱いものたちを、一生懸命にカバーしようとしているだけではないか。店の商品たちすべてに、分け隔てなく愛情を注いでいる。考えてみれば、商売人として当然なことだ。 最近は、ちょっとした傷のある野菜も果物も売れない。何かにつけ、相手のミスや問題につけ込んで非難の応酬となる世情も息苦しい。枝雀師匠の話から、この男が飛び出して来てくれたら、世の中変わるかもしれない。 「ハート印のついたニンジンね、買いなはったら幸せになりまっせ」 「お尻のヘコんだ桃ね、めっちゃ甘いで。今だけでっせ買いなはれ」 こんな感じで、なんでも売りさばいてくれるかも。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 水彩画:ポーランド南西の街チェシンの商店街

二足のわらじ

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スーパーマリオブラザーズのマリオは、なぜ配管工をやっているのかと、息子に聞いたところ、それは土管に潜ったり出たりする職業だからだという。でも、以前ドンキーゴングに出ていた頃は大工だったそうだ。 ということは、マリオは転職組ですか。今でも時々はドンキーゴングの仕事にも呼ばれることを考えると、むしろ配管工と大工の「二足のわらじ」というべきであろうか。 静謐で緊張感のあるミニマル音楽の作曲家、フィリップ・グラスの仕事ぶりについて、 面白い記事を読んだ。 彼は作曲家としての活動のかたわら、配管工としても働くのだという。配管工と現代作曲家の二足のわらじである。 ある日、注文先の食洗機を取り付ける作業に出かけた。その家はなんと音楽評論家ロバート・ヒューズ氏の家であった。自分の家で著名作曲家がスパナを持って働いているのを見て、ヒューズ氏は腰を抜かさんばかりに驚いたという。 常人には理解できないことだが、フィリップ・グラスにとって、本業の作曲に集中している時間以外に何をしていても問題ではないらしい。ニューヨークで作曲活動を始めたばかりの頃は、タクシードライバーをやっていた。 ほかにも沢山の芸術家たちが、小説や詩の執筆の合間に、税理士や地下鉄の車掌などの仕事をしていることが紹介されていた。芸術家といえば、ペントハウスにこもって創作三昧というイメージだが、それは間違っている。彼らは昼間は巷にあって仕事に没頭、夜には創作の海に漕ぎ出す。 彼らにとって、日常的な仕事とは想像の世界に浮かぶ自分をこの世に結びつけるアンカーポイントなのだ。そして、コミュニティへの参加によって得られる体験は、尽きせぬインスピレーションの源となるということだ。 これからの仕事観が変わりそうです。

得した気持ち

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先日、久々に10人前以上のカレーを作った。ジャガイモも大量に皮むきをした。ボールに積まれたジャガイモをみると、まるで映画「オデッセイ」のシーンのようだと思った。 火星探査のミッションの途中で、突然の嵐に吹き飛ばされたマーク・ワトニーは、致命傷を負ったものと勘違いされて、ただ一人火星に取り残される。 植物学者だったワトニーは、火星探査の次のミッションが到来するまで、自分を延命するために全力を尽くす。その命の綱となるのがジャガイモ。火星の土を水とバクテリアで耕して栽培するのだ。 その後、ジャガイモを食べて生き延びているワトニーの存在に気づいたNASAは、総力を挙げて彼の救出作戦を始める。いったい彼一人のために、何億円注ぎ込むのか。このへんが感動の物語だ。 映画の結末はともかくとして、ワトニーが地球に戻って、普通に空気を吸い食料を食べて、地球人として暮らすということに、かくも大きな価値があるものかと気付かされる。 この私はというと、いまもこうして普通に息をして、地球の上で無事に生きている。NASAに救出されないまでも、それだけで何億円もの価値があるというものではないか。 このように考えてみれば、 かなり得をした気持ちになる。