降りられないゲーム


人生は降りる事の出来ないゲーム。

こう考えると恐ろしい。僕たちは生まれた時から死ぬまで、世界の生存競争というレースに参加させられて、走り通す運命と言われる。でも、そうではない人生というのはあり得ないのでしょうか。昔は高校生の必読書であった(今は知りません)バートランド・ラッセルの(☆1)「幸福論」に、「競争」という章があります。第三章です。それを読んでみたいと思います。

「誰でもいい、アメリカ人や、イギリス人のビジネスマンに向かって、生活の楽しみを一番じゃまするのは何かと聞いてみるとよい。彼は『生存競争だ』と答えるだろう」(『ラッセル幸福論」pp.48 )

欧米人というのは、もともと「生存競争」で闘うのが好きだったのではないのかしら。狩猟民族だったのですから。ローマでは健闘士がライオンと闘ったりしたでしょ。現代における経済市場での闘いだって「生存競争」ですよね。それなのに、やはり「生存競争」というのは、彼らにとってもストレスなのでしょうか。実は好きでやってるんじゃないんですか。

「人びとが恐れているのは、明日の朝食にありつけないのではないか、ということではなくて、隣近所の人たちを追い越すことができないのではないか、ということである」(同 pp.49)

なるほど。現代のビジネスマンが闘っている「生存競争」というのは、幻想なんですね。本当の意味での「生存」を賭けた闘いではない。単に、お互い見栄を張り合って、優劣を競い合っているだけ。やめようと思えばいつでもやめられるのに、その「競争」からやめない。そういうことでしょうか。

「男の仕事上の生活には、百ヤードレースに似た心理が見られる。しかし、彼がやっているレースは墓場だけがゴールであるから、百ヤードレースには適当なこうした集中ぶりも、ついには、少々過度なものになってしまう」(同pp.50)

ゴールには墓場しかないなんて、嫌なこと言いますね。それに気づいたら、みんなそんなゲームは降りますよ。日本も「百メートル走」なんかありますが、僕は大嫌いでした。私も今すぐ降りたいです。もっと楽しい事。もっと人生にとって有益な事に時間を使いたいです。教養をたくわえるとか。しっかりした地位につくとか。

「ある医者が本当に医学のことをよく知っているかどうか、あるいは、ある弁護士が本当に法律のことをよく知っているかどうか(中略)彼らの価値を判断するには、彼らの生活水準から推定される収入による。大学教授について言えば、彼らは実業家たちに金で雇われた使用人であり、そういうものとして、もっとも古い国々で与えられているほどの尊敬を受けていない」(同 pp.55)

ええー。( 少し沈黙 )

なるほど、結局は、人生における地位や、趣味教養といったものも、収入次第ということなのでしょうか。じゃ、結局は「競争」して頑張らなければいけないのですか。

「人生の主目的として競争をかかげるのは、あまりにも冷酷で、あまりにも執拗で、あまりにも肩ひじはった、ひたむきな意思を要する生きざまなので、生活の基盤としては、せいぜい一、二世代しか続くものではない。(中略)そして、ついには生殖不能になって、子孫が絶えてしまうにちがいない」(同 pp.66)

「子孫が絶えてしまう」って?いいんですかそんなこと言って。

いや、全くそのとおりかもしれません。「競争」に明け暮れる世代というのは、僕たち昭和生まれまででいいでしょう。いまの大学生を見ると、そんな気もします。彼らの世代は、僕たち「競争世代」よりも賢いのかも。もう「競争」というものから抜け出ようとしている。時には、「ゲームを降りてもいい」って感じて始めているようですよ。「二次元への逃避」なんかは、彼らのひとつの戦術です。

物心ついた頃から、受験だ就職だと「競争」に追いまくられて。
今日の成人式、若者達には思いっきり楽しんでほしいです。
みんな仲良く、日本を支えて行ってね。

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☆1:パグウォッシュ会議で、湯川秀樹や朝永振一郎とともに、核兵器廃絶に向けた宣言をした、バートランドラッセル。人生で二度も投獄され、80歳で四度目の結婚をし、97歳まで精力的に生きた。その卓越した頭脳と行動力で、超人的な業績を残した偉人。このラッセル先生が、本気で「人々を不幸から救い出そう」として書かれたのがこの「幸福論」です。難しい本ではありますが、これからの人類にとっても、大事なヒントが隠されていそうです。

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