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12月 21, 2014の投稿を表示しています

カンポ通り

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冬休みにはいってから暇があるとポルトガルのある町をうろうろしている。カンポ通りという田舎道なのだが、色合いのきれいな瀟洒な外見の家が並んでいて散歩していて飽きない。散歩といっても勿論ほんとうの散歩ではない。グーグル・ストリートビューである。

iPhoneをあたらしくして記憶容量が以前の4倍になり、これまで我慢していたアプリのダウンロードができるようになった。グーグル・ストリートビューをひと味違う形で楽しめるアプリがいろいろとあって、試しているところである。今のところのお気に入りは「iMaps」というもので、ストリートビューで移動しながら、地図上のポイントを確認できる。

グーグルでスケッチポイントを探すのが目的なので「これは」と思った場所を、そこにまた来れるようにメモする機能がほしかった。これまでに何度も、素晴らしいスケッチポイントを見失ったことか。良いところが見つかって付近をうろうろしているうちに、うっかり操作を間違えると、もう二度と同じ場所には戻れなかったりするのだ。「iMaps」と「Google Map」の連携のおかげで、やっとその心配がなくなった。

ポルトガルの風景をスケッチしつつ、最近はずっと横尾忠則さんの本を読んでいる。前々からそうは思っていたのだが、改めて気づかされる天才ぶりである。やはり横尾忠則さんこそは、生まれながらの芸術家だ。こんな人はそうそういない。グラフィックデザインや画家としての才能はもちろんだけど、やはり神に選ばれた天才なのだろう。とてもじゃないが、こんな考え方や発想はできないという話がずらずらと出てくるのだ。この本を読みながら、僕はとんてもないことを思いついてしまった。


クリスマスに間に合った

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盲腸手術の快気祝いにかわいいワインをいただきました。グリーンと赤のリボンを首にまいて、クリスマスバージョンで袋から出てきました。飲むのがもったいなくて、まだ飾ってます。実際にいま飲んでいるのは、コンビニで買ってきた、ビニャ・マイポです。

今月初旬に入院したものの、病院での的確な診断と迅速な手術をしていただいて、ほぼ最短時間にて職場復帰することができました。今日のクリスマスに、ワインをいただくことができるのは本当に嬉しいです。「間に合った!」という気分です。

キリスト教徒でもない僕自身でも、クリスマスは特別な日。この世に生きている幸せを分かち合う。いいじゃないかと思います。日本のクリスマス。灯りをつけて、心の中でクリスマスソングを口ずさんで、ひとときの平和を分かち合いましょう。

メリー・クリスマス(=゚ω゚)ノ



大きな魚をつかまえよう

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ディビッド・リンチ監督といえば、どこか夢を見ているような不思議な映画を作る作家だ。先日、ある美術書専門店で監督の面白そうな著作を見つけた。「大きな魚をつかまえよう」という本だった。そのタイトルからは、本の内容の真意を汲み取ることも出来ないまま。不可思議な雰囲気につられて買ってしまっていた。

ぱらぱらと少し読んだまま、しばらく机に置きっぱなしになっていたのだが、今日なにげなく取り出して、少し読み進めてみた。すると、どういうわけか、昨日このブログで書いた「意識的ではない」プロセスについて語っているページに出会った。とても素敵な表現なので、少し引用させていただく。

「小さな魚は浅瀬を泳いでいるが、大きな魚は水底にいる。釣りをするコンテナ - 君の意識 - が広ければ広いほど、より大きな魚をつかまえることができる。その方法とはこうだ。どんな人間であれ、その内側は純粋な生気あふれる意識の大海だ。超越瞑想をして『超え』れば、この純粋意識の大海へ急降下する」

深く大きな意識の大海に(おそらくそれは無意識のこと)飛び込んでいくためには、普段つかっている、僕たちの表面的で小さな「意識」は、忘れてしまわなければならないのだ。このように「意識」の問題について、沢山のクリエイターたちが述べている。驚くと同時に、それはきわめて当然のことなのかとも思える。

今日はクリスマス・イブ。多少は「意識」から解放された、大きな魚の夢でも見られるだろうか。みなさまへ、メリー・クリスマス。


精神を停止状態に置く

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昨夜は、キューブリックのような巨匠の映画に出演する俳優が「意識を捨てて本人になりきる」ことを求められるということを書いた。優れた映画に現れる優れた演技というものは、意識的な演技ではなく、無我の境地の「演技を捨てた演技」でなければならないということ。なにか禅問答のような話である。

横尾忠則氏も著書「絵画の向こう側、ぼくの内側」で、画家も無我の境地で描くことが重要であると述べている。以下、少しだけ引用させていただく。

「絵の制作は、文章を書く時とは違って無心になることができる。精神を停止状態に置くことができるので、時間からも解放されて自由になれる <中略> こうした無心状態の時、肉体は精神と繋がっているのではなく、むしろ魂と繋がっていることが知覚できる」

横尾忠則さんは、「精神」と「魂」を別のものとしてとらえている。僕たちが普段「精神」としてとらえているものとは「意識的なもの」のことである。人間の存在そのものとしての総体とは違うものなのだ。それなのに、僕たちの日常では、この「意識的なもの」を強く感じるあまり、より重要であるはずの「魂」を、その支配下置いてしまう。

「精神を停止状態に置く」というのは、思ったほど簡単ではないのだ。そしてまた、これは、日本の古武道にも通じている。

まるで水の中の魚のように

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映像関係の授業の準備で、スタンリー・キューブリックの伝記などをいろいろと読んでいる。完璧主義者と言われるキューブリックは、撮影現場での逸話にことかかない。その中で、特にどの作品にも共通して言い伝えられている話はこういうもの。何度撮影が進んでも、キューブリックは同じ事を繰り返し言う。「OK。それではもう一度」つまり、もういちど撮り直しという指示だ。

俳優が渾身の演技を終え、あるテイクの撮影が終わったところで、こう言われる。一度、完全な演技が行われて、それが完璧に撮影されても「もう一度やりましょう」ということになるらしい。それが積み重なって、ついには60テイク以上も撮影が続けられることも、ざらにあったとか。

演技するほうの俳優としては、たまったものではない。別に何が悪いわけでもない。何か修正の指示があるわけでもない。それでも、ただただ繰り返して撮り直しをする。このように、映画の撮影の現場で、ひたすら俳優を追い込んでいく話。溝口健二監督についても、そいういう逸話が沢山残っている。

ここで監督は、いったい何を意図しているのだろうか?

どんなベテラン俳優も、演技を仕始めた段階では、どこか「意識」が先攻する。台本の台詞を頭にいれて演技をする以上、そこにははある程度の「作為」が出るだろう。どこかに「こういう風に演技をしよう」という意識、それが頭のどこかに生まれる。キューブリックや溝口健二のような巨匠は、それを許さない。俳優が「演技しようとする意識」を捨てて、真実の行動をするひとりの人間になりきったところを撮影したのであろう。

まるで自転車をこいでいるときのように、まるで水の中の魚のように、ピアニストが没我の境地で演奏しているように。俳優が登場人物そのものになりきり、お腹のそこから、その存在になりきる瞬間を待っているのだろう。