花が見ている

なるほど。人が寄りつかなくなった公園や空き地は、いつか、ゴミが散乱する不法投棄の場となり、不審者が潜む危険地帯となり、それによって近隣には空き巣や傷害事件などの犯罪が頻発する。かつて、そのような危険地域となってしまった、宮崎県祇園4丁目の住宅街からのレポートだ。
日経新聞 9/7夕刊

2004年から、この地域に引っ越してきたOさんは、散乱するゴミを見かねて、雑草を刈り始めた。さらに「花を咲かせれば、ゴミも消え、不審者も寄りつかなくなるのでは」とと考えて、所有者の市から許可を取り、公園作りを始めたという。子どもたちが「怖いから通らない」といっていた敷地は、小学生の待ち合わせの場所となったという。花を育てることで、多くの人の「目を集めることができる」だけでなく、実際に近隣の住民が、花の手入れのために出る機会も増える。人の目があり、人の行き来があるということが、基本的な犯罪抑止につながるということだ。「花が見張っている」とは、これまで気づかなかった。監視カメラよりもよほど効果があるのかもしれない。
____________________

ドロボウですら、こうして「花を見に来る人の視線」を気にするのだ。一般人にとってもやはり「他人の視線」は気になるもの。最近、大学での授業で学生はなかなか質問をしない。これは偏差値などにかかわらず、日本全国共通の現象のようだ。せっかく授業料をはらっているのだから、少しでも多く質問でもして「割り勘負けしないように」授業の時間を独占すればいいのに、などという考えはまるで無い。むしろ、他人の時間を邪魔しないように気をつかっているようにも思える。

実際に「質問して聴きたいことが無い」ということではないようだ。それが証拠に「それでは質問も無いようなので、これで授業は終わります」と言うと、今度は教壇に寄ってきて質問をする学生が必ずいる。また、メールやメッセといった、非対面式のコミュニケーションでは、人が変わったようにドハデな会話をする。要するに「他人の前では」質問したくないだけなのだ。まわりの人間から「あんな質問するなんて」などと誹りを受けることをおそれているだけなのだろう。その気持ちも分からないでもないが、他人の視線を必要以上に意識しているのではないか。

これは、近年の若者の間だけでなく、一般的な風潮として存在する現象のようだ。「ある特定集団の中ではおとなしくしていたほうがよい」という考え方は「空気を読む」という流行語に凝縮されている。「ある特定の集団というのは」特に微妙な知人のことで、「やや知っている友人」や「知っているか知らないか知らないくらいの微妙な他人」のように、友人でも他人でも無い中間層が、もっとも気になる集団になるようだ。つまり「どうやら自分のことを知っているらしいが、こちらは向こうをあまり知らない」従って「向こうが何を考えているのか分からない」やつらという集団に対して、恐怖にも似た感情を持つのだという。

人前で話すときには、周りの人間を「畑のカボチャ」だと思えとはよく言ったものだ。「ひとのウワサも七十五日」「旅の恥はかきすて」など、人前での恥を気にしないようにするためのおまじないも沢山ある。だがしかし、これは人間がそもそも「他人の視線」を気にしないではいられない動物だということの証拠か。

-

Popular posts in Avokadia

レイチェル・リンド

大機大用

おそらく史上最低のFBI捜査官だけど