傍観者の時代

「傍観者」という言葉は、無責任で他人まかせな、現代人にぴったりだ。周囲の人間が、どんなに一生懸命やっていても、それをひややかに見ているだけ。「人には構わず」で「あっしにはかかわりのないこってござんす」というのが「傍観者」だ。電車や雑踏の中での、いざこざを見ても「見て見ぬふり」の乗客。けが人や急病人があっても、遠巻きに見るだけで助けもしない群衆。

ところで、このピーター・F・ドラッカーの名著「傍観者の時代」に登場する「傍観者」とは、実はドラッカー氏ご本人のこと。世界中から尊敬され、MBAの始祖とも言える氏について、「傍観者」だなんてとんでもない。この本で、ドラッカー氏が言う「傍観者」とは、わたしたちが考えるような「傍観者」とは全く違う。それどころか、まるで逆かもしれない。

この本には、ドラッカー氏が、長い人生の中で見た「人間の記録」である。ドラッカー氏ご本人のおばあちゃんに始まり、オーストリアの蔵相、元ナチス親衛隊副隊長まで、多種多様な人物の真実に迫る、観察の記録なのである。この観察とは、理科実験的な意味で言うような「観察」とは違う。ドラッカー氏の前に現れた人物になりきってしまうほど、超近距離からの観察であり、分析と考察なのである。そして、ナチスドイツによるオーストリア併合や、ユダヤ人への迫害、第二次世界大戦にいたる20世紀を、ひとりひとりの人間を通して見つめている。

客観的に人間を見つめること。つまり自分の「好き嫌い」や「先入観」を廃して、純粋に人間を見つめる。善人であろうと悪人であろうと人間である。自分自身の人生を全うしようとする存在であることは、一国の首相でも一市民でも変わらない。自分という存在を通して、自分のまわりの世界をベストに持って行こうとする点で、すべての人は同じという考えかた。ドラッカー氏の言う「傍観者」には、そういう意味があると思う。

現代のメディアを通して現れる「人間」はすべて、ある明確なワクに収まっていなければならないようだ。メディアは、そこに現れる人間を、その時々に応じて、あるカテゴリーに入れ込まずにはいられない。良い人間、悪い人間、それか、普通の人間。だけど、ドラッカー氏のいうような「傍観者」の視線は、すべての人間を「同じ人間」として見ている。そして、すべての人間は、すばらしく面白い。

スーパーおばあちゃんは永遠に >>>

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