鳩山由紀夫さん

清水次郎長と一国の首相をくらべるのもどうかと思いますが、鳩山由紀夫さんにも、もうすこし「当事者」意識を持っていただきたいものです。この間の普天間基地移設問題への対応を拝見していると、どうもその「傍観者」的な姿勢が気になります。

内閣総理大臣という仕事をいちど引き受けた以上は、すべての国事に対して一生懸命に働くのが当然です。なによりも、ご本人たちが選挙中に、そのようにおっしゃってませんでしたでしょうか。「この身を挺して働きます」とか、「日本の国政に全身全霊を傾けて」取り組むとか、おっしゃっていたような。

昔から「綸言汗のごとし」と言います。とても偉いひとの口から出た言葉は、どうしようもなく重いもので、決して取り消すことは出来ないものですよ、という教えです。普天間基地移転問題を、五月には責任持って決着すると、おっしゃていました。明日で五月は終わりです。

鳩山さんにしても、その前の三人にしても、日本の首相の言葉は軽い。前言撤回、朝令暮改はまだしも、最近はどちらかというと記憶喪失。なぜなんだろう。この無責任さは。どこからくるのか。この当事者意識のなさは。「俺が首相だ!」という意気込み、あるいは責任感といか、当事者意識というものが、みなぎってこない。これはどうして?

二代目だから?

国の政治にしても、会社にしても「Founder = 創設者」には、重たい思い入れがあるものだ。でも二代目にはそれが無い。かりに、国や会社が潰れてしまっても、先代ほどは責任も重くはない。命を掛けて守る理由もない。大変なことは引き受けたくない。

「傍観者」は気が楽だ。何かあってもそれは誰かほかの人の責任だし、自分では責任を取らない。鳩山さんに限ったことではなく、現代の社会におけるリーダーには「傍観者」タイプが多いようにも思える。複雑怪奇な経営システムを仕切り、重すぎるリスクを背負い、株主からの要求を受けながら、歯を食いしばって経営を続ける。「当事者」として、そんな面倒なことはやりたくない。それが、近年の経営者の本音なのかもしれない。

現代社会には、清水次郎長や幡随院長兵衛のような、「当事者」型のリーダーは出現にくいのだ。「当事者」意識に燃えるリーダーを生み出すシステムも無ければ、そのリーダーを守る、高い精神性を持った社会理念も無いのだから。「当事者」型のリーダーになっても、何の得もないのが現代なのだ。しかし、日本は、どこもかしこも「傍観者」だらけ。一国の首相も国民も、すべてが「傍観者」であった場合、その社会は、どこへどのように漂流していくことになるのか。

傍観者とヒーローのちがい >>>

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