存在するとかしないとか

高台寺の遺芳庵

今月のナショナルジオグラフィックの特集で、ブラックホールを取り上げていた。アインシュタインは、その存在を否定していたというが、現代の天体観察データによると実際にあるもののようで、物凄い勢いで、物質を飲み込んでいて、光すらもそこから逃げ出せないらしい。

データ上、そこにあると言われても、実際に目で見ることは出来ないんだよね。目には見えない。ということは、僕たちの常識でいうと「存在していない」というものの部類にはいるのでは。凡人の僕にはそのように思える。

最近、ある科学的発見について「実験データ上は存在する」とか「存在しない」とか大きな論議が起きている。人間ドックのデータも「数値」によって、親切に病気の存在を証明してくる。でも、感覚人間の僕にとっては「存在の有無」というのは、最終的には、自分自身の感覚次第だったりする。昔からずっと、迷信的人間なんです。

京都の街には、目には見えない宇宙が沢山ある。通りに面したところは玄関や格子戸になっているけど、その代わりに家屋の内側には中庭がある。小さくとも、ちゃんと四季を感じる樹木が植えられて、形の良い石なども置かれて、さながら小宇宙の箱庭である。

この小宇宙は古来日本人の精神生活にあった、自然観や宇宙観にそのもの。西洋の方々は、自然界というものは人間社会の対極にあると考えるけど、日本人にとって自然は自分の身体と同じひとつのもの。

もちろん現代には、様々な世界観があるのだけど。

茶室という建物。その不思議な空間では、茶をたてていただくだけ。しかし、その「他には何もない」という小さな空間が、むしろ無限の宇宙につながっている。心を沈めて無心の境地に達すると、茶室の外側に広がっている大宇宙は、すべて茶室の小さな内側に取り込まれてしまう。つまりこれは、まさに日本的精神によるブラックホール空間。

このブラックホール、その存在を信じたいと思います。あくまで感覚的にですが。


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