ベッドの上で一つ歳をとりました

退院後にいただきました!

あまりに忙しすぎて自分の誕生日を忘れていたということが、確か一度だけあったと思う。僕が30代後半あたりの頃。周りも見えていなかったし、自分がやってることも見えなかった、そんながむしゃらでオバカな時代のこと。

50代になって、今度は入院で誕生日を過ごすことになろうとは夢にも思わなかった。誕生日のほぼ一週間前のこと、急な腹痛で薬をもらいに病院にいった。ところがそれは明らかな虫垂炎との診断。即日入院、即日手術ということになった。その日は金曜日であったため、もしその日の手術を逃すと、月曜日まで二日間も待たなければならなかったので、不幸中の幸いであった。

もしかすると「誕生日に退院」という偶然もあったのだが、抜糸などのタイミングもあって、退院は誕生日の翌日となった。つまり今年の誕生日は、病院のベッドで「独りでスゴした」のである。

いろんなことを考えた。考えるしかないもんね。入院して、村上春樹訳、レイモンド・チャンドラー著「ロング・グッドバイ」も読んだのでなおさらであった。頭の中が、ちょっとだけ、ハード・ボイルドな感じになっていて、思考がドライな文体になってしまった。ベッドの上で独りで面白がっていた。

このへんのことは、後ほど詳しく書きたいと思う。村上春樹氏がいう、小説の文体における「自己意識の不在」って本当に示唆に富んでいる。この話は、意外にもさまざまなことに繋がっているのだ。たとえば、映画のシーンで演技する役者の没我的状態。個人的体験を言語を使って共有するということの難しさ。だって言葉というものは、僕たちの経験していることのほんの一部だって表現できない。

だから、レイモンド・チャンドラーは、言葉以前の体験に基づいて文章を書いているんだって。こういう文体を読むということは、無意識に演技している役者の演技を見るとか、完全に没入した状態で演奏しているピアニストの音楽を聴いているのに近い。そういうことなのだと思う。また、キューブリックの映画などでは、非言語的表現によって、これを実現している。

「意識」というものと、「意識」が感ずることすらできない「自分」という存在について。とにかく考えさせられた。


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