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10月 3, 2010の投稿を表示しています

ジョンの魂

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ジョン・レノンは、いまやきっと、神様の隣の席にすわってるんだよ。

そう思いたくなるのも当然でしょう。だって、今日のように世界中の人々が、一斉にその魂に祈りをささげるようなことがあるものだろうか。YoutubeでもTwitterでも、JLに溢れた一日。こうして彼の生誕70年を、世界の多くの人が「世界平和」というメッセージとともに、彼を思い出している。世界を平和にしたいという気持ちを、これだけ多くの人に伝えたジョンは、すごい。

デビュー間もない時期に「僕はキリストよりも有名だ」と発言したことで、ビートルズのレコードの不買運動などキリスト教信者からの大反発を受けたジョン。でもきっと、もう70歳にもなって、神様もすっかり許してくれたんだね。

EMIのバランス・エンジニアだった、ジェフ・エメリックが書いているが、ジョン・レノンの " Across the Universe "を、初めてスタジオで聞いた時には、本当に鳥肌が立つような気持ちだったという。あのギター一本と歌声だけでも、まるで全宇宙を超えていくような広がりを持つ名曲。現在、モノ・リマスターボックスの、Mono Master 2 に収録されているのが、その時のオリジナル・テイクだということだ。今聞いても、ジョンの心が、宇宙と同じくらいに大きく広がっていくイメージに溢れる。

アメリカの先住民、チェロキーの信仰は、とても大きくとても深い。しかも彼らは、それを人生が続いている間に、自分の心と体で体現できることを知っている。インディアンの少年が、祖父母から人生についての大事な教えを受ける小説「リトル・トリー ( The Education of Little Tree )」の仲で、少年の祖母がこう語る。

「だれでも二つの心を持っているんだよ。ひとつの心はね、からだの心(ボディ・マインド)、つまりからだがちゃんと生きつづけるようにって、働く心なの。 <中略> でもね、人間はもうひとつ心を持っているんだ。からだを守ろうとする心とは全然別のものなの。それは霊の心(スピリット・マインド)なの」「霊の心が大きく力強くなってきたら、昔自分のからだに宿っていた命も全部見とおせるようになるの。そこまで行くとね、からだが死ぬことなんてもうないのとおんなじになっちゃうの」

人間の命にも限界があり、人間の力にも限界がある。そ…

科学のハート

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ガリレオ・ガリレイは「地動説」をめぐってローマ教皇と対立し、異端審問を受けた。およそ330年後もたった1992年、バチカンはこの誤りを認め、彼の名誉を回復したが、やはり科学と宗教は本質的に相入れないものかもしれない。

1973年に、ノーベル物理学賞を受賞した、江崎玲於奈博士は、この「宗教と科学」の本質的な違いを明確に意識しながらも、人間の心の中での共通点について、このように書いておられる。

「心には、マインドとハートのふたつの面がある。私がマインドの極みであるサイエンスにひかれたのは、ハートの極地に神がいるという同志社での教えに触発されたからのようです。いずれも『心の極地』ということでは、同じだからです」( 10月4日 読売新聞 )
同志社に学びながらも、決してキリスト教徒になることは無かった博士。一方で「自然や宇宙を支配する絶対唯一の神が存在すると信じるキリスト教は、絶対的な自然神と共通する側面もある」と指摘される。
どんなに科学の時代となっても、人間が科学に取り組むには、その心が必要だ。ものごとに疑問を感じ、ものごとに挑戦する意欲を持ち、自然界の不思議さに感動する心。江崎博士の言葉によれば、科学者は「マインド」という心を使って研究は進めるのだが、実際には「ハート」という感動する心がなければ、真実の業績には到達しないということではないだろうか。
目では決して見えない物質の世界を、心の眼で見通す。昨夜のノーベル化学賞受賞のインタビューに答える鈴木章氏の、おだやかなまなざしに、まさに道を究める者の「ハート」があふれ出るのを感じた。根岸英一氏の言葉にも、自然界にかくされた秘密を探し出す、探求者の心を感じた。結果は30年かかっても、ついてくる。肝心なのはハートなんだ。ハート。


素直な心

経営の神様と言われた松下幸之助氏は「素直な心」の初段だったという。

松下政経塾編「リーダーとなる人に知っておいてほしいこと」に書かれているのだが、現役のころの松下幸之助氏は毎日毎日、神社や仏閣で「今日一日どうか、素直な心を持たせてください」 と祈り続けて来たというのだ。

経営的な判断や、人生における重要な決断において、余計な考えや雑念があってはならない。正しく揺るぎない判断をするためには、主観を排して偏りの無い心を持たなければならない、ということでの精神修養だ。

松下電機を、世界企業に育てた偉大なる経営者、松下幸之助が「判断を誤らないように」自分のこころの状態をコントロールしようと努力していた。ましてや凡人の私のような人間こそが、心の曇りを無くす修行を、しなけれはならないだろう。いやむしろ、凡人であるからこそ、自分の判断は、正確で公平なものであると思い込み、慢心しているのだ。

命がけの選択や、経営の大決断というものを前にした時、人間というものは、なかなか平常心でいることは難しいと思う。松下幸之助氏は、「素直な心でいさせて下さい」という祈りを30年以上続けたのだそうだ。神社や仏閣がない時には、山や空に向かって祈ったという。シロウトの囲碁だって、何百回もやれば初段になるんだから「30年以上続けていれば、なんぼなんでも初段くらいにはなるやろ」ということで、ご自身のことを「素直な心」の初段と言っていたそうだ。頭の下がる話である。

二つの物差し

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結局のところ、どっちが良かったのか、さっぱりわからない代表選。白黒わからない前幹事長。進めるのか進めないのか、はっきりしないダム建設。隣国につながるの高校授業料の無償化。世の中、何が良くて何が悪いのかわからない。ものごとがはっきりしないのが、世の中だ。

しかしこれが通用しないのが教育現場。正しい解答というものが、二つ以上あってはいけないというのが、教育の世界での原則である。合格であって同時に不合格というものはあり得ないし、正解であって同時に不正解というものもない。

教育の現場においては「公正なる評価」が強く求められているために、曖昧な答えは、常にゆるされないのだ。はっきりとした、評価をするために、正しいのか悪いか、どっちかしかないのだ。しかし、いずれ大学から実社会へと巣立っていく学生にとって、これでいいのだろうか。

昨日も紹介した鶴見俊輔さんと重松清さんの対談集「ぼくはこう生きている 君はどうか」では、現代の教育現場にも多様な価値観が必要であると、語られている。

かつて江戸時代の寺子屋では、教師は職住一致で近所の子供の面倒を見た。現代の塾講師のように、受験の請負人ではないのだ。当時の教師というのは、人を落とすためではなく、人を育てるために働いた。だから、人間の評価においても、道徳教育の実践においても、多様な価値観というものが、用いられて来た。教養という物差しと、人間という物差しの二本が必要とされていたのだ。

最後の答えは合っていなくてもいい。問題に直面したときの構想力を評価する。そんな多様な考え方を示せる大人の存在が必要なのだ。江戸時代にその役割りを担ったのが、近所のおじさんであり、寺子屋の先生だった。

西郷隆盛、大久保利通も下級藩士である。みんな大衆の中からでてきた。高杉晋作、伊藤博文、キラ星のごとき長州の志士も、萩という狭い地域から出た。吉田松陰という教師は、多様な価値観と愛情を通して、個性豊かな塾生のひとりひとりを育てあげた。

そこにあるのは、情緒の通う共同体(ゲマインシャフト)だけが持つ、人間関係の暖かさなのだ。

人が人を蹴落として競争を強いられる現代社会と、濃密な人間的な情緒をともなった江戸時代。どちらが、優れた人材を輩出できるか、誰の目にも明らかなのではないだろうか。


エピソードある友情

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鶴見俊介先生と重松清さんの対談集「ぼくはこう生きている 君はどうか」の中に、「エピソードのない友情は寂しい」という話しがあった。最近の子ども達は、本気で喧嘩をしない。喧嘩するとしても、思い切りぶつかるかわりに、ほんのささいなことで傷つけ合うようだ。メールのちょっとした一言に過剰反応。友人の空気を読まない行動にムカつく。行動や外見が仲間と違うというだけでシカトする。

そんな中で、友情エピソード満載の、映画「BECK」観ました!

これだけイケメン男子俳優が揃っていれば、この映画ヒット間違いなしと思いきや、公開直後に水嶋ヒロ君の引退騒動が.. いやいや大丈夫。この映画、ただのイケメン映画ではないのです。友人と友人が、思いっきりぶつかり合って、お互いの力を引き出しあっていく、まさに「エピソードのある友情」の物語なのです。個性派ぞろいの5人が、いかにバンドメンバーとして結束していくのか。いかにしてそれが壊れていくのか。そしてまた、新しいエピソードのもとで再生していくのか。堤監督は、この傑作マンガの映画化において「エピソードある友情」というテーマを軸にしたのに違いないと思う。

これまでこのブログで、三人という仲間が集まった場合の人間関係の難しさなどを考えた。ビートルズの四人も、いつかそれぞれのメンバーの成長とともに崩壊していくのだった。共通の目的をめざす仲間が起こすいざこざは、同じ目標を追うからこそ激烈になる。お互いを思いやる気持ちよりも「なんで、おめえは本気でやらねえんだ!」という怒りが先に立つ。

私もテレビ局生活の中で何度も経験しました。長い間同一のスタッフが一緒に仕事をしていると、いつか必ず不協和音が生じて来るものです。決して仲が悪いわけではないのだけれども、長期間の仕事では、一日一日の積み重ねの中で、ちょっとしたすれ違いや誤解が、だんだん大きくなっていくもの。「あれ?これって昨日決めたこととちがうじゃん!」「この間はこれでいいっていったじゃん!」なんていう、ちょっとした行き違いの繰り返しが、いつか「おめえとなんか、もう、二度と仕事をしねえ!」というコトバの爆発で最後を迎えるのです。特に、仲の良かったスタッフどうしが、こうなるのは寂しいものです。後悔先に立たず。ああ、言わないで我慢すればよかった、と。

最初は素晴らしい成果を上げたチーム。しかしいつか、どこかに問題が生…