国王は法よりもエラいのか
歴史の小道には、道端にめだたない草花が咲いている。そして時には、こういう小さな草花みたいな話が世界史の真実を語ってくれることがあるらしい。
たとえば、「国王は法よりもエラいのか」という疑問に答えるひとつの裁判記録があるのだそうだ。 封建時代なので法どころかすべては王族や教会の権力者たちの問答無用で決められていたのでは。ところが、14世紀のエドワードⅢ世の治世の時代ともなると、そうでもない事例が現れる。
ある州長官が、高等法院の法廷に、国王の印が押された新書をたずさえて出廷し、被告はすでに王の赦免を得ており事件は却下すべきであると申し立てた。ところが裁判所は、この申し立てを却下して、裁判所は国王の個人的な書簡を提示されただけで判決を下すことはできないと通告した。つまり、イギリス国王エドワードⅢ世は、被告を赦免することは出来ても、法を無視する事はできなかったのである。
このエピソードは、ハーバート・ノーマンの「クリオの顔」(☆1)に紹介されている。クリオというのは、歴史をつかさどる女神の名前である。彼女のひかえめで皮肉な性格は「歴史」そのものの本質を現しているのだ。「クリオの顔」は歴史の真の姿というものは道ばたの草のようなエピソードや目立たない登場人物が語るものということを教えてくれている。
学校で学ぶ世界史では、つい「勇敢な行動、軍隊の進撃と対抗、政治家の演説」など、わかりやすく派手な話ばかりが強調される。高校生が授業中に寝ないようにね。しかし、こうしたものは、どういうものかクリオの心を動かさない。エドワードⅢ世のエピソードもそうであるように、史実は退屈で目立たない資料に埋もれて読み解く人を待っている。そして、歴史に謙遜に学ぶことで偏見から解放されたものにのみ、クリオはその素顔と微笑みを見せるという。
とにかく、14世紀のイギリスの王様でさえ、法律をまげることは出来なかったのだ。ましてや現代の日本において、法律をまげて解釈するような独断専行の為政者があれば、いずれ歴史の女神クリオの不興を買ってしまうのではないだろうか。
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☆1:クリオの顔
「世界」1950年1月号に掲載された、ハーバート・ノーマンの書き下ろし論文。彼は戦時中に日本に赴任していたカナダの外交官であったが、日本研究者でもあり、同時にすぐれた世界史家でもあった。