清水次郎長

自分のこともふくめてだが、都会ではすべての人間が「傍観者」になってしまいやすいのだろう。というよりも「当事者」になりにくいし「当事者」となることは大変なのだ。トラブルを見たからと言って、へたに口出しすれば、「うっせーなー」とか「うぜー」とか言われるのが関の山、場合によっては変な責任まで押しつけられてしまうのではないかと考える。だから、電車でウンチ座りする若者に、誰も何も言わないし、言えない。

江戸時代を舞台にした、落語や講談の世界では、なにかというと、ケンカやトラブルの仲裁にはいりたがるヒーローがいて、この世の問題を一気に解決してくれる。「清水次郎長(しみずのじろちょう)」や「幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)」といった、親分集だ。彼らはいわば私設の「知事」であり「警察署長」であり「簡易裁判所長」であり、とにかく地方自治において重要な役割をになっていたのだ。まさに「自治」という文字そのものを体現していた。どちらも、実在の人物です。

現代における「知事」や「警察署長」は分業だ。なぜかというと、こうした「権力」を一箇所に集中すると大変なことになる。「知事」が犯人を逮捕して判決をくだせるようになったら、一体何をしでかすことかわからないから。そうか。逆に言えば、江戸時代で何でもかんでも解決してくれた、ヒーロー的親分は、安心してすべてを任せられる、人格者であったということか。

上記の二人のような親分衆のことを「侠客」という。広辞苑によると「侠客」とは、「強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴に起源。多くは、賭博、喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。」とある。喧嘩渡世ってわかります? 喧嘩が仕事なんですよ。というよりも、喧嘩の仲裁。

上方落語には「どうらんの幸助」という希代のキャラクターがいる。いつも「どうらん(胴乱=お財布のこと)」をぶらさげているので「どうらんの幸助」とよばれる、まあ町の親分さん。やくざでもないのに、「幡随院長兵衛」を気取って、あちらこちらの喧嘩を仲裁して歩く。一代で起こした炭屋の隠居なので、潤沢な小遣いを使って、ダイナミックに仲裁していく。なんと、犬の喧嘩にまで割ってはいる。喧嘩をしている野良犬の気を散らそうと、生節まで買って与えるという「喧嘩の仲裁」マニアだ。

「喧嘩好き」ということは、実はすぐれた「調停者」ということ。つまり、すぐれたリーダーということだ。

傍観者とヒーローのちがい >>>

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